さて、なにかあなたの【胸の仕え】を、少しでも軽くすることに貢献できたでしょうか?
本編を全て読まれた方は、このswitchメソッドは問題を解決するための万能薬ではないことにお気づきかと思います。このメソッドは解決策ではなく、あなた自身が本来の力を取り戻すための、本当の状況を客観的に把握するために、知っておくと有利なことを分かりやすく並べたものです。
【これだけやっていればOK】は存在しません。諸行無常諸行無常です。
だからこそ、常に自分の心のホームポジションを意識して、すぐにでもいつもの場所に帰れるような概念を持つことは、最も自分を普遍なものにできる可能性があります。
浮かんでは消えていく不安や焦りなどの感情は、自分の心の発する場所を見つけると、受け流すだけの体勢がとれるようになる事が多いものです。
本当は~~にしたかったからだ
~~しても良かったんだ
自分の事がわかるようになると、自然と相手が望むものも見えてくる事があります。
意外と生きづらくなる本当の理由は、それほど大したものではなくて、そこで生まれたズレが重なって大きく見えているだけなのかもしれません。
こうして考えていくと、何を持って人の性格や個性と定義すればいいのか分からなくなる事があります。
事のはじまりを生む認知・そこから自分で選び遂行する行動と選択。
はじまりとなる認知ですら、状況に左右されるわけですから、性格や個性の定義を認知の仕方にくくることも出来ません。行動と選択は認知に左右されるために尚更です。
では、認知・行動・選択を全体的なベクトルとして包括して性格と呼ぶのならば、【性格を変えられない】と悩むことは非常に不毛なことなのかもしれません。
性格を変えるとなると、認知が浮かんでくる大本の所から変えなくてはならないからです。発想、人間性、精神などなど……。
そこを変えるのは難しいですが、行動と選択は選択肢さえあれば変えられます。その選択肢の変更に関わる葛藤が、どんな認知から来たのかが分かれば抵抗感も抑えられます。
もしかしたら、私達が思っている【自分】とは、想像以上に曖昧で幼いころの選択設定に偏っているのかもしれません。
で、あれば新しい選択が自分の根本を破壊する、目に見えない何かであるような不安感は、単に自分を理解するためのデータ不足が起こすフリーズなのかも……と考えると明るく思えてくるから不思議です。
このswitchメソッドは、どうかご自身を肯定していくために活用してください。よく分からなかったら、よく分からなかったことを肯定し、その自分も受け入れてあげてください。
いつか、何かと結びつくことがあるかもしれません。
そして、カウンセリングなどプロの助けを求められている方は、本編で感じた内容と照らしあわせて、相談するための踏み台に使ってみてください。ご自身のことを伝えやすくなるかもしれません。
switchメソッドについてはここまでです。
今後は少しずつ役立つ技法などを発信しつつ、様々な【困りやすいこと】のカテゴリーごと、各々のメソッドをまとめていきたいと思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
『こんな事を相談したら怒られる?』『忙しそう』などで拒否されるのが怖くて相談が苦手。
そうしているうちに問題が大きくなり、さらに『どうしてあの時相談しなかったんだろう』と自分を責め、動けなくなってしまう。
例えば近くの誰かが不機嫌だった時、自分が悪いのではないかと、自分を疑ってしまう事があります。
多くの場合は、思い当たらなかったり相手から示唆されなければ気にしなくなりますし、むしろ不機嫌を続ける相手に幻滅したり嫌悪感を持つなど、自分が相手を評価する側に回ります。
しかし、認知や行動・選択がズレていたり、両極思考・表面思考が強く出ている場合、こうした状況があると『自分が悪いのではないか』から抜けられなくなる事があります。
他人の失敗や良くない状況に対し、自分の責任として考えてしまう事を【責任の個人化】であると、第3章で触れましたが、このケースも責任の個人化です。
対人に不安があったり、自己評価が低くなっている時は、この傾向も強くなりやすくなります。
また、責任の個人化と同様の苦痛を生み出す傾向を持つのが、【相手に迷惑ではないだろうか】という不安感です。この不安感は相手に確認する事にも不安を感じさせるため、『迷惑ではないだろうか』のまま、ただただ不安を増幅させていく事になります。
これを過去のトラウマや対人不安などの一言で片付けてしまうと、余計に修復が難しくなりがちですが、責任の持ち方に対する認知の観点で、自分の行動・選択を思い返してみると分かりやすくなることがあります。
人に相談出来ない時にありがちなのは、『忙しいかと思って・こんな事聞くのは怒られるんじゃないか・説明してもらうのは申し訳ない』など、相手への敬遠です。
しかし、本当に相手の事を考えて敬遠しているのかと言えば、『相談する事で失敗したくない』が元の、自己評価を守るための極端な責任の誇大化です。
こうして、入り口にどうしても必要な、確認・相談の行動に責任を誇大化させると、そこに目を奪われて大事なことを見失います。
【聞かなかった事で起こる実際の失敗】です。
ここで『聞く勇気を持て』と言われても、人間性や性格の問題ではないので、精神論では難しいはずです。怖がりや臆病なのではなく、責任の捉え方が強いため、リスクを避けるために必要な行動・選択だからです。
人は自分の理論と異なる行動を取る時、戸惑い、オドオドするものです。
相談する時、相談するリスクを誇大化して、本題の失敗を認識できなかったり、そこを絶望的な結末が待っていると考えれば余計に進めなくなります。
こうした時は、先に【聞かなかった事で起こる実際の失敗】を思い浮かべます。そして、相手に先に告げてしまいます。
【~~ってやっちゃいそうだから、ちょっと教えてもらっていい?】
相手にかかる可能性のある迷惑を、先にこちらが想定していることで、相手はむしろリスクを減らせたことになります。同時にあなた一人が抱えるはずだった責任を、相手と共有することで軽く出来る効果もあります。
もし、相手が大した理由もなく断った場合、相談を断った責任が相手にも生まれるので、取るべき行動を取った事は保険になります。同時にそうしたヘルプを解消できない環境の在り方を問われるケースになるので、今後の対策を相談するというマニュアル作成にも発展できます。
そして、この技法をさらに効果的にする観点があります。
相談するのは、最終的に誰のためなのか?
例えば友人、家族関係の場合、その人間関係で【聞かなかった事で起こる実際の失敗】を未然に防ぐことになるわけですが、その時、【失敗しないことで自己評価を守るため】なのか【相手に安心してもらうため】なのかを意識する事に大きな意味があります。
【失敗しないことで自己評価を守るため】に責任を考える場合、どうしても失敗は禁忌になりますし、実際に問題が発生してしまった時に打ちのめされてしまう危険性が出てきます。落としてしまった評価を取り戻す具体策は存在しないからです。
対して【相手に安心してもらうため】の場合、そう出来なかったことを相手に謝罪するという具体策が存在します。
仕事の場合はこれが【会社に貢献するため】や【お客さんへのサービスのため】と置くことになります。ここでも【失敗しないことで自己評価を守るため】と無自覚にとらえていると、立場的にも様々な矛盾が生まれ、行動・選択を適切に思い浮かべられない状態になるのです。
仕事中に休憩をとっている人を見ると、イラッとする
人のミスに強く出てしまう
いずれも仕事など何らかの目的で動いている時の、自分への【責任】の取り方に関わる反応ではないでしょうか。
今回は自らの認知や、責任感のあり方がズレてしまう際の、自分の境界線の置き方についてご案内します。
仕事があればあるだけ仕事をしてしまい、体力的に無理が起こったり、ミスにつながったり。また、他の人との呼吸が合わず、結局連携がちぐはぐになり非効率になってしまう。
さらには休憩をとっている人を見ると、イラッとしてしまうなんて方も。
仕事をしながらも、複数のことにアンテナを張っておけず、シングルタスクやシングルフォーカスになっている場合には、非常に陥りやすくなる問題です。この過集中タイプの方の場合は、区切るポイントを具体的にし、スケジューリング以外に切り替えるフラグを立てていくことと、切れ間のメリットを認識することで、ある程度の対応が可能になります。
しかし、そうではなく【責任の受け取り方】で起きている(または含まれる)場合は、認知を見つめる必要があります。
【完璧主義】の中でも触れましたが、状況や認知によって使命感に苛まれたり、責任の所在を見失うことがあります。また、自分の立ち位置を見失い、その職責の範囲を深く受け止め過ぎて【仕事=作業(使命感あり)】に偏ってしまう事があります。
仕事や作業がそのまま使命感の様になってしまうと、休憩を取ることや中断することに薄っすらと罪悪感を抱くなど、後ろめたさを持つようにもなります。その罪悪感は作業をすることで払拭されますが、何かしらのミスが起こるだけでも、強い自責の念を抱きやすくなります。
こうして切迫感や強迫感に苛まれ、誰かに終わりを指示されるまで(または周囲がそういう雰囲気になるまで)、自ら離れることに不安を感じる様になります。
実は仕事への責任感であるようでいて、仕事をこなす自分自身の在り方への責任感が強く、そこに身を置くことや『これくらいは出来なければ』というハードルを自分に突きつける強迫感の連続だったりします。
そういった場合、仕事をやり遂げても人生観を変える様な大きな成果ではない限り、自らのこなしたことに達成感を持ちにくなります。
結果的に微弱な開放感や安堵、また気が抜けるだけなど、自己評価を上げるには肯定感の足りない受け取り方になりかねません。
一度仕事への責任感を、『自分の責任』などの自立や自己実現などといった自戒から切り替え、『仕事をこなすこと』だけに絞る必要があります。
対策としては、一般的な休憩時間のタイミングに合わせ、しっかりと休憩をとる日を数日間設け、仕事終わりの自分の疲労感や張り詰め具合が【どれだけ楽になったか】を感じようとしてみてください。
この【楽】は害ではないはずです。むしろ、『仕事をこなすこと』に求められる、将来的に連続して続く仕事の繰り返しに対し、効率よく自分の体力を残していく作業でもあります。
【どれだけ楽になったか】を感じようとすることが大事で、継続や実行に意識が無いてしまっている時は、なかなかここに気がつくのが難しくなるものです。
自身の責任に縛られた場合、失敗を恐れたり挫折を非常に嫌う傾向が出てきます。もちろん失敗や挫折はマイナスですが、将来的に負の遺産であるかといえばほとんどはそうではありません。それよりも責任に縛られ、仕事の効率が落ちていったり、継続を保てなくなるのであれば、それこそ負の遺産です。
【どれだけ楽になったか】を感じる事で、『仕事をこなすこと』への有効性を実感し、責任の持ち方をスイッチすると視界が広くなります。
失敗を起こさない事を第一にする職業では、多くの場合、休憩時間の徹底と手順の確立の徹底があります。例えば建築現場での作業は、命の危険が伴うことがあり、また少しのミスが大きな損失を生むことがあるため、一日の作業の確認と10:00/15:00の休憩は最優先されます。
歴史的にも有効であったから残る、広いスパンで考えられた、仕事の効率化だからではないでしょうか?
自己実現や自己評価の上昇は、こうした仕事の積み重ねの先にあります。自分を張り詰めてどうこうしようとするよりも、仕事の長い成功に的を絞った方が近道なのかもしれません。
そして、一番大事なのは【ここで休んでもいいんだ】という、休憩する自分への肯定感を持つことです。
自分の責任(在り方)に強迫感を持っている時は、責任を負うことを避けるばかりでなく、責任の存在にも敏感になります。
余裕を失っている場合、時に人は他人との境界線が曖昧になってしまう事があります。人のミスが自分のミスのように不快感を感じてしまうのです。
【人は自分が気にしている事を、他人の行動の中に見た時に指摘する】
他人の失敗に目が行き、必要以上の言葉をぶつけてしまうのは、自身が失敗や責任に対して強迫感を持ってしまっているからかもしれません。『自分が過去に同じ失敗をしたから』とか『相手のミスは自分にも回ってくるから』という想いからの場合でも、それを説明すればいいだけで、必要以上に相手を責めれば、相手は余計に強張り、ミスの連鎖を生みやすくなってしまう危険性が高まります。
人はコントロールされることを嫌います。しかし、相手をコントロールすることに欲求を持っています。適正な人格同士の距離感を保てていれば問題はありませんが、責任に強迫感を持っていた場合、この距離感を見失うことで自分を守ろうと強く出ているのかもしれません。
人は人、自分は自分。発想は自由である。
『一番悪いのは誰?』で責任の個人化を防ぐ
その他人のミスは、自分の在り方を崩すものなのか?
言いたくなった一言は、自分自身の不安ではないか?
この観点で、過去に相手に厳しく出てしまった例を思い返し、当てはめてみてください。なるべくリアルに思い浮かべ、そこにこれらの観点を発見することで、脳に追体験させます。この中では【言いたくなった一言は、自分自身の不安ではないか?】という一言がキーになりやすいタイプだと思います。実践する際はこのキーワードから入ると、衝動的な発言が抑えられるかもしれません。
同時に、自分のミスに対して必要以上に強く出てくる人は、【言いたくなった一言は、自分自身の不安ではないか?】と考えてみると、何をコントロールしたいのかが見やすくなり、不快感を低減させる効果があります。
次の章では自分の在り方や、責任の所存に影響を与えやすい、『人の境界線』についてご案内します。
ボーっとしたり意識が薄くて集中できない
聞いてる時は分かったのに、いざとなると手が止まる
自分の認知のズレや、行動・選択に不適切な物があると理解しても、いざ自分の行動に反映させようとすると再度見失ってしまう事があります。ここで失敗した時、『わかってるのに、どうして?』と自分を責めたり、自己評価を下げてしまう危険性が出てきます。
この章では実感力にまつわるハッキリとした認識を得る方法と、そのメカニズムについてご案内します。
ここまで認知が生活の様々な場所で、自分がとる行動・選択に関わってきているとまとめてきましたが、『物をよく落とす・倒す』などの不意なミスにもその影響が出ていることがあります。
ここに関わっているのは、実感力とメモリの低下です。
物をよく落としたり倒したりする時は、何かしらの準備中・作業中・探索中など、その物に対する集中以外の案件が頭にある時ではないでしょうか?
夕飯の準備、料理中、掃除中、仕事中のコーヒーなどです。
フリーズ・パニックにメモリ(思考の余裕)不足が絡んでいるように、『物をよく落とす・倒す』などの不意なミスには、別件への思考によるメモリ不足が原因だと考えられます。メモリが不足することで『持つ・運ぶ・位置決め・設置』など一連の動作への実感が薄くなっているのです。
メモリの不足で起きるということは、作業中でなくても対人不安や環境への動揺、思い通りにならない事への憤りなどでも、不意なミスが連続してくる可能性があります。
この時、『しっかりしなくちゃ』と意識しても、結果が変わることはあまりないのではないかと思います。なぜなら一連の動作への意識確認が必要なのに、自分がしっかりしている事に意識を向けても、集中している場所がピンポイントではないからです。『しっかりしなくちゃ』への集中力が切れると同時に元に戻る可能性があります。
繁忙期や環境変化で起きた一過性であれ、認知のズレによる人間関係・対人関係で起こる慢性的なメモリ不足であれ、この【実感力の低下】は意外と簡単に取り戻せることがあります。
これを持つ
あそこまで掴んで運ぶ
置く場所を確認する
しっかり置く
とひとつひとつの動作を頭の中で確認して下さい。聞かれて問題がない環境であれば、口に出しても良いです。これを短期間意識的に行うだけです。
物を運ぶなどの動作は、ふだん何気なく行っていますが、こうした一連の作業項目を脳が自動的に流れとして行ってくれています。しかし、何らかの原因で他の事にメモリが奪われる状態が起こると、一連の作業の自動化に抜けが出てくるようになってしまいます。
今まで当たり前にやっていた分、わざわざこうして一連の動作を再確認することは、あまりやらないのではないでしょうか。
動作を手動で意識することで、脳への刺激は強まり、一連の流れの実感力が増します。この刺激を集中的に繰り返すと、自然と脳のメモリ割り当てに変動が起こる事があるようです。
人の話が理解しにくくなったり、どうにも自分の事として実感が持てなくなっている時も、物を運ぶ時のような【実感の自動処理】が滞っている場合があります。
聞いている時は分かっているのに、いざ自分のことと落とし込もうとすると、なんだか分からなくなり立ち止まってしまう場合などです。
例えば幼い頃、先生がみんなに向かって話している時、ボーっとしてしまって耳に入らなかったのに、先生が紙芝居などを始めた時は、その場その場で理解しながら聞けたなんてことはなかったでしょうか?
興味関心という刺激が後押しをしているのはもちろんですが、『理解しよう』と意識や感覚をいつもより前に押し出した形になっていたのではないかと。
みんなに向かって説明している先生は、どこまでが自分に関係するのかの意識が薄く、『聞こう・分かろうとしよう』という目的意識を持ちにくくなります。対して紙芝居の場合、それもみんなに向かって話しているのですが、自分がそれを聞きたいために『聞こう・分かろうとしよう』と選択しているわけです。
例は子供の場合ですが、行動・選択自体は子供の頃に自分で決めてから、それほど変わることがないというケースがほとんどです。
大人であれば知識や経験があるので、聞くべき立場にあることや、理解すべきことを『知って』います。しかし、この当たり前なはずの一連の動作に、メモリが割り当てられなかったらどうなるでしょう。
『物をよく落とす・倒す』時と同じく、不意なミスを巻き起こすなど、進行に支障が現れます。
『聞く・わかる・自覚する』にも、ふだんは脳が自動的にメモリ振り分けをしてくれていたのが、メモリ不足によって『分かろうとする・自分の事と実感しようとする』という意識の自動化ができなくなっているわけです。
起こりやすい状況的として、例えば新入社員が初めて仕事の説明を聞く時に、緊張と不安感。相手の目を気にしすぎることでメモリ不足を起こし、耳に入って入るが自分の事としていちいち理解する流れが滞るなどが分かりやすいでしょうか。
これは自分が憶えないといけない
~になるためにはこれが出来ないと
これは何のために理解するのか
など、そこにある情報と自分の関連性を、意識的に集中する必要があります。これは物を持つなどに比べて流れが複雑で、イメージしにくいと思うかもしれません。
その場合、例えば今は新しい職場や環境でも、数カ月後に適応したうまくやっている簡単なイメージを、予めボンヤリと持っておくことをおすすめします。
このイメージは曖昧でも構いませんし、叶える必要もありません。その場に慣れてリラックスした会話が、その場のうちの誰かとしているような、極浅いイメージで構いません。
ここに起きている緊張や不安は、対人関係が絡む事がほとんどです。
うまくできるだろうか・受け入れてもらえるだろうか……。これらが同時並行で起こることでメモリを失うことは多いのではないでしょうか。曖昧にでも受け入れられている環境設定のイメージがある場合、そこまでが『持つ・運ぶ』などと同様な一連の流れになります。
この時、同時並行ではなく、関係についての問題はやや先送りになるので、多少のメモリ開放につながる可能性があります。
さらに『分かろうとする・自分の事と実感しようとする』など、自動処理から手動に切替えて意識することで、実感力を取り戻す流れが作りやすくなるのです。
場合によってはこれを邪魔しているものの中に、両極思考やパワーゲーム思考などを見つけることもあるかもしれません。
次の章は、人との距離感や仕事への付き合い方などに関わる、『自分の境界線』についてご案内します。
パッと最初に強い印象を受けたり思い返したことがぐるぐる邪魔をする
そこにあるはずの物が目に入りにくく余計に焦る
などなど、困惑や感情的なものから、思考停止(フリーズ)したりパニックに陥ることは、人それぞれ大小あれど起こっています。
それらを予め抑えていくには、ここまでの章でご案内してきた、受け止め方や反応を確認したり、修正をかけていく事になります。しかし、パニックを起こす時は、不意を突かれた時に起こるものです。場合によっては、パニックを起こしている自覚すら、出来ないことも。
この章では、フリーズ・パニックを起こしている時に起こりがちな、体感覚や思考のパターンや、現実への実感に起こる現象をご案内します。どういう時に何が起きているかを知っておくことは、何に対して反応しているかなど、リアルタイムでのヒントがつかみやすくなります。
いつもは気にしないような音、エアコンの動作音やコピー機の音、換気扇の音や他の人の会話など、それらが突如思考の邪魔をしているかのようにイライラを募らせる事はないでしょうか。
生活には感覚を刺激する様々な情報が溢れています。しかし、それら全てを知覚して処理しようとすると、脳に膨大な情報が溢れてメモリ不足に陥ります。そのため人は必要な物以外にはフィルターを掛けたようにカットし、必要な情報だけを処理できるよう、情報の取捨選択をしています。
これを選択的注意といいます。
例えば
視覚:見ようとしている対象以外にも、目立つものや気を引くようなものがあっても、その時には対象以外に意識がいかない様になる。映画館で映画を見ている時、視界に入っているはずの他の観客の外見などは、映画の刺激を超えない限りカットされる。同じ確認作業の繰り返しの時、見るべきポイント以外は目に入らなくなるなど
聴覚:常に聞こえている騒音や、拾わなくていい類の音への注意をカット。長く乗り物に乗っている時にエンジン音が気にならなくなる。パーティーなどで大勢の会話などの雑音がある中、誰かと話をしていると、他の雑音が気にならなくなる。
触覚:着ている服の肌触りが、着ている内に気にならなくなり、触覚への注意がなくなる。一定の刺激の連続による神経刺激の麻痺ともとれるが、しかし、気にしようとするとすぐに肌触りを感じ始める。
しかし、一度に処理することが増えすぎた時や、処理が間に合わなくなってくると、情報の取捨選択が追いつかず選択的注意ができなくなる事があります。その時、今までカットされていた物が感覚に復帰することで、その分いつも以上に強く感じて注意を大きく持っていかれるようになります。
その強い刺激が、さらに必要な物への注意を阻害し、悪循環に陥るはめに。
無駄に受け取る感覚が強くなり、強調され、思考が邪魔される事で不快感にまで昇華。感覚過敏に陥ることも。
こうした状態の時は、情報の整理がつかなくなっている証拠だととらえ、一度手を止めてやるべき事を紙に書き出すなど、脳内でのみの処理から開放する事でメモリを取り戻しやすくなります。
【ふだんは自動的に情報の取捨選択がされているのが、自動では上手く行かなくなったので手動に切り替える】とイメージすると分かりやすいかもしれません。
手動に出来るのはやるべき事などの項目だけではなく、音の氾濫や視覚情報も同じです。ひとつの音にだけ注意して集中する。探す視覚情報を予め設定しておいて、見つけるべき物がある場所の検討をつけておくなどもそうです。
例えば、デパートなどで選択的注意が取れず、視覚情報が氾濫してしまうタイプの方は、どこの売り場に何を買いに行くかを決めておき、その都度メモなどで確認すると、情報の氾濫によるフリーズ・パニックが緩和されることがあるようです。
一部の発達障害や精神症の場合、選択的集中が元々苦手な方もいます。解消まで出来るとは限りませんが、さらなるパニックやメモリの消失を防ぎ、適正な認知や行動・選択の確保が改善されることがあります。
選択的注意の改善策としては、フリーズ・パニックを起こさない状況や対策を整えるのが手っ取り早いのですが、それだけでは状況の変化に対応できないケースもあります。意識的に手動に切り替える作業をすると、パニック・フリーズに陥っても回復が早まる可能性が高まるので、同時に行っていくことをおすすめします。
話の前後の関係や流れ、筋などを見失い、表面的な事実のみで思考する状態です。
失敗に対して、その度合を大きく極端に受け取って、『失敗=罪悪』と受け取ってしまうのは両極思考であると先にご案内しました。
しかし、その両極思考を分解して考えてみると、『失敗した』という事実だけに目が行き、周囲の反応や状況と比較して判断するなど、前後の関係が抜けている状態でもあります。
両極思考も表面思考から起きていると考えると、分かりやすくなる部分があります。
余裕のなさが先か、表面思考が先かという違いがありますが、【全力疾走しながら、計算問題を解くのは難しい】と言うとどうでしょう。全力疾走している時は、向かっている先か走っている事くらいにしか意識は行かないものです。
認知に何らかの障害を持っている場合は、特性としてこうした事実と認知の置き方にズレが起きやすく、【目についたもの・思いついたもの・思い出したもの】など、表面的な刺激に全ての思考を持って行かれてしまう事があります。
しかし、表面思考は認知に関する障害がない方でも、状況がそろえば同じような思考に流れ、酷く余裕を失ったり閉塞感に苛まれてしまうことがあります。また、特定の条件下でのみ表面思考になる方もいます。
表面思考については第5章-Ⅱの【両極思考】で挙げた内容が、その性質に近いので詳細な対策などはそちらを御覧ください(過去記事⇒第5章-Ⅱ:謝れない、謝らない・極端な考え方をする│両極思考とは?)。
また、【目についたもの・思いついたもの・思い出したもの】などに対して【それが全て】になり、衝動的に動いてしまう場合は、衝動性へのアプローチが必要です。例えば衝動買いや使い込み、転動(注意がそれてしまい、あちこちに気が向いてしまう)などが衝動的な行動として挙げられますが
1:今現在行っている主題の目的・意図・立場を明確にする
2:瞬間的な衝動を抑えるため、その場を離れたり視線を外し、10秒ゆっくり数える
と、2つに分けた認知への働きかけが有効です。
フリーズ・パニック時にかかるストレスは、心だけでなく身体にも影響を出します(心も身体の中の一部器官の活動なのかもしれませんが)。こうしたストレスのダメージを受けやすいのが自律神経だと言われています。
自律神経は精神・神経・内分泌・免疫・循環器など非常に広い範囲を担当しています。
自律神経が正常に動かなくなると、影響が出てくる部位も広く、頭・耳・目・口・のど・手・足・皮膚・心臓・呼吸器・泌尿器……などなど多岐にわたります。自律神経失調症などでよく挙げられる代表的な症状といえば、めまい・ドライアイ・視力低下・耳鳴り・喉の渇き・立ちくらみなどです。
内分泌も調整しているということは、セロトニンなどの精神状態に作用するホルモンの制御にも作用します。セロトニンは腸内で作られ、体温調節などの内蔵管理にも使われるため、腹痛や下痢・嘔吐などの症状が出ることもあります。心理状況に影響が出るため、抑うつなどの神経症の引き金にもなりかねません。
また自律神経は寝ている時の姿勢と、立っている時の姿勢など、その重力や体内の圧力に合わせて血流を調整しています。例えば立っている時は、最も高い位置の脳に血を送るため、血圧を上げたり血管を開放。しかし、その状態のまま寝っ転がると脳に血が行き過ぎたり、今まで下だった下半身などの血流にも支障をきたします。
自律神経が正常に働かなくなると、こうした仕組みも上手く行われず、寝た時の動悸や起きた時の立ちくらみを引き起こす原因にもなります。
対策としてストレスをなくすことが一番ですが、原因をなくすのは社会的にも難しいケースがほとんどです。しかし、認知と行動・選択を見直すことで、問題を問題でなくしたり、環境条件に置き換え対処を考える余裕を生み出せることがあります。
メンタル面でのアプローチはこうした方向として、身体面でのケアは規則正しい生活や食生活などはもちろんなのですが、自律神経の範囲を逆手にとり、【温かいものを飲む】【姿勢を良くする】のが効果的だとも言われています。
【温かいものを飲む】のは、セロトニン分泌などの体温調節が、冷たいものを口にすると余計に働くことになるので物理的に温度を下げないために注意するため
どちらもどこまで科学的に正しいかは分かりませんが、こうしたことに意識的に取り組む事も、時にスイッチになるのではないかと思います。
次の章では実感を高め、思考をもやっとさせないための、『実感に落とし込む』技法をご案内します。
]]>B:逆に何らかの問題が起きた時や、物事が上手くいかない時に、【自分が悪い・自分ができないから・自分のせいで他の人達は幸せになれない】と、自分を責めてしまう。
こうして、いつまでも抜ける先がないトンネルにいるような、窮屈な感覚に陥ることはないでしょうか?
第1~4章は自分の認知とそこに現れる行動・選択の性質について、第5章は6回に渡り、認知と行動・選択がズレやすくなる特性や、認知に起こる状態をご案内してきました。
人は自分の欲求に対して、それぞれの認知を持ち、そこから自分で選択をして行動を決めています。その選択や行動によって、対人関係や社会的生活で上手く行かなくなる時の多くは、実際の行動・選択が欲求に対してズレていた時に起こるものです。
自分はどう感じていたのか
どうしてそう感じたのか
なぜ、その行動を選択したのか
これらを見つめる事は、行動・選択と欲求のズレを見極めることとなり、同時に解決策も見えることが多くなるので、これらを見つめるだけでも一気に楽になることがあります。
しかし、これらを見つめようとする際に、欲求を著しく見つけにくくしたり、実際と歪ませてしまうパターンがあります。冒頭のAとBがループするタイプも、このパターンの一部だと考えると、急に生きづらさから抜け出せることがあるようです。
今回は人の欲求から生まれ、しかし、欲求自体を見えにくくしてしまう事がある【憤り】についてご案内します。
言葉の定義として違いを表すと、【怒り】はその相手や因果関係がハッキリしていて、ぶつかる
相手がある状態。【憤り】は思い通りにいかない事に対する、不満やマイナスな感情の蓄積で、不条理・自己矛盾など言葉にすらしづらい状態と表現できます。
自分の意志であるなしに限らず、欲求と行動・選択がズレた場合に【憤り】が起こり、相手や物事に因果関係があった場合は怒りとして表出します。
【怒り】には因果関係がある分、自分で何かしらの決着や収まりを見つけることが出来ますが、【憤り】は自分の中にある欲求そのものとの関係なので、そこに決着がつかない限りいつでも再燃しますし、状況に大きく左右されてしまいます。
しかし、相手や物事に責任の所存や因果関係がないにも関わらず、何らかのせいにしてしまう事があります。これが自分以外に向けばA、自分に向ける形をとればBとなります。
Aの場合、失敗や思い通りにならない事に憤りを重ね、しかし責任の対象が見当たらず、手がかりは薄ぼんやりと自分の欲求(欲求そのものだとは気がついていない事の方が多い)に感じ、その責から逃れるために状況を制御する欲求に駆られています。
この制御欲求は第4章でも触れましたが、これは自身が過去に学習から生み出した選択です。
例えば欲求通りに動いてくれない親に、憤りを怒りとしてぶつける形に選択すれば、困った親が欲求を叶えたり共感しようとしてくれた経験(問題への直接的なコントロール)。
例えば物事に欲求通りの結果が得られず、さらに評価を他人にしてもらう事に傾倒しているタイプの場合。失敗や不安に対し、自己評価だけは守ろうと、状況や道具などのせいにすることで、他者からの弁護・保護を受け責を逃れた経験(問題自体ではなく、そこに関わる責任から逃れるためのコントロール)。
脳の処理は優秀なもので、いかに知性が伸びようと知識が増えていこうと、こうして労力が小さく効果を生み出せる方法を学習すれば、そこを選択しようとするものです。この選択は大抵の場合幼いころに完成することが多いので、大人になるとその理論は思いもつかないほど短絡的で、自分のことなのに全くの予想外な思考だったりします。
こうした自己矛盾をもはらんだ幼いころの選択は、それが単に選択だったとは思わないため、【理由が分からないもの】として不安と同系統の処理をしてしまうことがあります。
─── だからこそ余計に触れようとはしないし、触れることはとてつもなく根本的問題で人生を揺るがすことになりかねない、大きな問題に手を出すようなものだと錯覚をしてしまうのです。
幼いころの事だったりするので、しっかりと思い出せることはないかもしれませんが、第1~4章にある技法で認知や欲求、そして行動・選択の理由を見つけながら、【自分の子供時代だったら、こういう風に相手のコントロールを望んだだろう】と想定してみてください。
これは正確である必要はありません。
問題を前にした時、周囲や状況をコントロールしようとする理由に納得がもてれば良いのです。そうすると自分の生み出した選択に従い、状況の改善を試みていただけのことで、実際はただただ人のせいにするという行動は、人間性の問題ではなかったことが分かるかと思います。
行動・選択と欲求の因果関係が、分からないからこそ起きていた、小さなパニックや思考のループだと考えると向き合いやすくなります。
Bの様に【憤り】や問題を、すぐに自分のせいにしてしまうタイプも、単に弱気だとか内気だとか言う類の人間性の問題ではありません。
Aの場合は他のせいにする形で、状況のコントロールを試みていたわけですが、Bの場合は自分の責だと決定し、そこを責めることで【問題との関わり方をコントロール】しています。
ここには第5章-Ⅱの両極思考や、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)などの一部の発達障害や、パーソナリティ障害などの一部の精神障害の方が持つ、【他者との境界線が曖昧】という特性が絡む場合もあります。
他者との境界線が曖昧だったり、問題の前後が掴みにくい表面思考などの特性がある場合は、単純に責任に気を取られ集中することで極大化してしまったり、どこまでが自分の負うべき責任か分からなくなり、【責任の個人化】が起きているケースが主になります。
しかし、そういった障害のない方でも、精神状態や環境によって『自分のせい』にすることで、問題との関わり方をコントロールすることがあります。
【問題との関わり方をコントロールする】というのは、Aの場合と同じく、行動・選択と欲求の因果関係が把握できないことで起こるパニックと、仕組みは同じではないでしょうか。
分からない事で膨らむ不安を、そのまま受け流すというのは、時に非常に難しいテクニックになります。分からない事への不安を感じた場合、その制御できない憤りを外に向けるか、内側に向けるかでABは分かれています。
Aの場合は行動・選択が直接的に解決の方向性に向かっています(解決するかは別だが)。Bの場合は制御できない問題そのものにではなく、【上手く立ち回れない自分を責める】という行動でバランスを取ろうとする制御であることが考えられます。
境界線や表面思考などの特性が主で、これらの制御欲求が絡んできている場合もあるかと思います。そういう場合もやはり、自分がなぜそうした行動・選択に至っているかを、認知の面から理解することで、立ち向かう方法の範囲は絞られてくると思います。
憤りは欲求が満たされないことで起こるとしていますが、全ての欲求の不満が憤りになるとは限りません。感じている憤りが小さくて、認識できない場合もあるかもしれませんが、それらは結局どこかに消えていってしまうものです。
そういう他愛のない葛藤が消化されるパターンとして、『~~だから、まあいいか』とか『~~だし、仕方がない』と、抑止の理由に納得がいった時が挙げられます。
よく、こうした憤りなどの過去に関わる、感情の問題などの捉え方に対し、【ここまでは我慢した。私だって人間なのだから、これ以上嫌なことを我慢しろというのは耐えられない】と答える方がいます。
……それは辛いはずです。
認知とそこに関わる行動・選択の視点で、憤りに対峙するということは【我慢】や【気を紛らわす】事ではありません。憤りに絡む自分の欲求がどこから来ているかが分からなければ、単に憤りや怒りに対し、人間性だけで応じなければならなくなるからです。
しかも、憤りが起こる時は、欲求に対して純粋にそれを求める欲求だけとは限りません。憤りが蓄積されるまで発展する場合は、純粋な欲求以外の何らかの問題やコントロール(制御欲求)が関わる時です。
例えば夫婦間でコミュニケーションや、愛情表現への不満に関する問題が起きたとして、【夫婦はこうするものなはず】と【そういうのがよく分からない】という意見の対立になることがよくあります。
この対立がこじれている場合は、相当に大きなぶつかり合いが起こるか、劇的な環境の変化などが起きない限り平行線をたどります。
【夫婦はこうするものなはず】にはコントロール欲求が強く、自身の考えるコミュニケーションの形式で相手が答えてくれることで、安心欲求を満たしたいという流れがあります(~~って言葉で愛を感じたい……など)。場合によってはそれを試すように、どうして欲しいかの欲求を伝えることはせず、理解を望む場合もあるでしょう。
【そういうのがよく分からない】には現実的に“どうしたい”などの明確な理想像はなく、またそこに決定することに無理が生じることで、その関係がこじれることを忌むなど、消極的でありながら関係維持のための欲求も含まれているケースもあります。葛藤が生まれやすくなるため、【一緒にいられるだけで幸せだ】などの、言い得て妙な返答が出来るほどの余裕が持てなくなる場合もあります(大抵はそのまま、“なんて言えばいいのか分からない”までの理解で止まっている)。
こうして並べてみると、平行線をたどる理由も見えてくるのではないでしょうか?
もし、【夫婦はこうするものなはず】に合わせた場合、それは無理があったり強制的な体を感じさせるかもしれません。そういった抵抗を感じなくても、新たな葛藤が生まれるでしょう。
『心にもない言葉を掛けていいのか?・いや、この考え自体、口にすれば“心にも思ったことがない”ということなってしまう……』と。
逆に【そういうのがよく分からない】に合わせた場合、やはり愛情を感じられないと思ったり、欲求が満たされないことでの不安感が起こります。そして、やはり新たな葛藤が生まれるでしょう。
『こちらから言わない限り言おうとしないのなら、それはそういう気持ちがないってことなんじゃないか? これを口にして尋ねるのは強制になるのでは? しかし、言わなければモヤモヤはとれない……』
結局、我慢ではなんの解決にもなりませんし、対人関係で欲求を通すには相手の理解が必要で、そこにコントロールを挟めば問題が起こりやすくなるということです。
極端に言ってしまえば、自分が我慢をしたくないとして、自分の行動・選択を変えず、欲求を叶えるということは相手に我慢をさせている状態です。
しかし、先に挙げた夫婦問題の例のように、お互いの心の動きが分かっていたら、欲求を阻む『分からない不安』の壁は薄くなり、納得しやすい状態が整いやすいのではないでしょうか。
憤りの解消は、欲求を叶えることだけではありませんし、我慢をすることでもありません。納得し、また違うアプローチを模索することが、一方的な憤りを蓄積させない事が最もリスクの少ない方法です。
自分の欲求はなんなのか?
どうしてそうしたいのか?
関わる人にはどう動いて欲しいと望むのか?
そこにコントロール欲求はおきていないか?
といった、認知のあり方や行動・選択を見つめることが、『分からない不安』も抑えながら、憤りを受け流すための交通整理となります。
【人のせい・自分だけのせい】も人間性や性格で起こしていたのではなく、自分の欲求と行動・選択がズレていたりなど、欲求に対してまっすぐ向き合うのが難しくなっていただけなのかもしれません。
例えば予想を超えたものに直面した時、考えがまとまらなくなり、衝動的に行動を取ってしまったり、事態を悪化させる方向に巻き込まれてしまう。
例えば思い通りにならない事態や、想定外の責任を背負いそうになった時、その大小に関わらず、自分でも理由が分からない内に激しい抵抗感や感情の爆発が起こる。
───反応が表に出るか、内に向かうか。
フリーズ・パニック・癇癪、それぞれ様々な場面、性質の上で起こりうるもので、これらも決して特別なものではありません。
今回は問題の処理や現状の認識を行う時、そのストレス対応によって事態を困難にさせる可能性の高い、フリーズ・パニック・癇癪についてご案内します。
フリーズが起こっている時、様々な考えがぐるぐると回り、しかしそのどれも決着がつかないまま回り続けたり、それらが氾濫して茫然自失になったりします。
『~~って一体、なんだっけ?』
今目の前にある事象に対して、その定義ごと見失うようにして、自問自答でハマり込んでいくこともあるようです。
複数の未解決な問題や、考えるべき要素が同時に浮かび、処理が追いつかなくなった時や、ひとつの事実に衝撃を受け、それまでの考えが飛ばされた時に起こることがあります。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)を始めとした、発達障害の方々にも見られますが、定型発達者(いわゆる普通)の人にも起こり得る状態です。特定の状況を超えたり、コンディションと合致すると起こるのも、そのハードルの高低はあれど同じではないでしょうか。
なんらかの障害や特性が直接フリーズを生むのではなく、状況に対する認知や行動・選択のあり方で起こることが多いので、誰にでも起こることだと言えます。
無反応・硬直・言葉が出ないなどの大きなフリーズから、表情に余裕がなく返答にどこか要領を得ない・その間の処理が低下しているなどの触れなければ気が付きにくい小さなフリーズもあります。
対処法は様々なのでここでは個別には触れませんが、【どんな時に起こりやすいか・自分のどんな気持ちが引き金になりやすいか】を書き出して自覚することが第一です。
特に【どんな時に起こりやすいか】は【相手・騒音などの環境・体調】などの外的要素を、出来るだけ細かく思い起こし、【それがどうして原因になるのか】まで見つめるつもりでやってみてください。
内的要素に関しては、前回のフラッシュバックに使用した【受け入れる技法】が役立つかもしれません。
フリーズは意外と直接的な問題の大小などではなく、【何にメモリを奪われたか】が対処法への重要なヒントになります。
パニックが起こっている時は、急な予定変更など状況がズレた時のショックや焦燥感から、状況を取り戻すために躍起になり思考が不安定になったりします。
フラッシュバックが関わることもあったりします。
また、何らかの心理状態やストレスなどでの余裕の無さから、なんてことのない言葉が強く大きく、両極思考やパワーゲームの様になってしまい引き金になることもあるようです。
フリーズに比べて思考は動いていますが、状況判断や具体的なシミュレーションイメージなど、対人に向けた反応は弱くなってしまいます。
癇癪というと子供が起こすものと思われがちですが、知性や知識量、性格・人間性に関係なく起こる可能性があります。自分の思い通りにならない事に対して起こるのが基本ですが、対人ではそのコントロール欲求を、他人の判断に預けている時に起こりやすくなります。
基本的に状況が思い通りにならない事への感情の暴露や、そうさせてもらえない事に対して、その相手への感情的訴えによって起こします。
思い通りを望むもの
許可してくれない・受け入れてくれない・認めてくれない・返事や表情などが思い通りでない・こういう時はこうしてくれるはず……などの、別離不安にも関わるコントロール欲求
これはこうあるべき・こういう形でなければならない・今までこうだった・こうしないと気持ち悪い気がする・それをするのが不安……など、完璧主義や両極思考由来の、失敗に対する不安感への対処
感情を爆発させるだけでなく、イライラを発露させ続けるなどの感情的訴えに傾倒する方もいます。
フリーズ・パニック・癇癪は、社会的には憚られる傾向にあり、そうなってしまうことに罪悪感を持ってしまう方が多くいます。しかし、起きていることが【自分を傷つけないためのストレス対応】だと考えると、脳がしっかりと仕事をしてくれているのだと分かります。
もし、起こってしまったとして、人間性や能力の問題ではなく、認知のあり方がどうであったかなので必要以上に恥じる必要はありません。
もちろん、だからといって、フリーズ・パニック・癇癪を思うままにやっていては、社会的な地位を失ってしまう危険性もあります。基本的に感情を表に出すこと、感情で解決することは、社会的には認められる行為とは言い難いからです。
で、あるならば、そうならないようにアプローチしていく方が、得であることは明白です。それは“耐えられるだけの人間性”などの曖昧な策ではなく、どうして自分に起こるのかをしっかりと押さえた知識を持つことです。
フラッシュバックにも外向・内向的な出方があったように、フリーズ・パニック・癇癪はそれぞれ処理の仕方によって、表への出方が違います。
特に癇癪に関しては、そこにいるコントロール欲求が関わるため、そこにいる人物によって出方が変わるなどが顕著です。フリーズとパニックは状況の判断や、そうなる環境の想定で対処を考えて行けますが、癇癪はやや異なります。
癇癪の場合、癇癪を起こすことで欲求が叶った過去の学習から始まっているケースがあり、【こうすれば、相手はこう動くだろう】を無意識の内に繰り返している場合があります。まず、この選択に自覚を持ち、その欲求の通し方を直接的なものに変えていく必要があります。
そして、癇癪やイライラを起こす時の裏にある、【人に解決させたいと思った小さな不安の理由】を見つけ出していきます。
この辺りも前回のフラッシュバックでご紹介した、【受け入れる技法】が役立つ可能性があります。
次の章では、ここまでご案内してきた1~4章の認知と行動・選択と、そこに関わる6つの行動特性、これらに大きく関わる要素となる『憤り』についてご案内します。
例えば誰かに注意された時に、親に怒られた瞬間がオーバーラップしたり、何かのイベントに参加しようとした時に以前の失敗を思い出して足が動かなくなるなど。
これらの様に過去の嫌な経験が、なんらかのきっかけで鮮明に蘇り、感情まで害してしまう事をフラッシュバックと言います。
過去に強いストレスを受けた場合や、精神障害、一部の発達障害に見られる傾向がありますが、実はそれほど特別なものではないのかもしれません。どんな方にも起こり得ることで、また特に自覚をしていないだけだったり……。
今回は時に衝動的な感情に走ったり、逆に立ちすくみ硬直してしまうなどの症状を起こす、フラッシュバックについてご案内します。
フラッシュバックは上記の様に、ふとしたきっかけでその時の記憶と、その時の感情が鮮明に蘇る事をいいます。単に嫌なことを思い出す事ではありません。
多くの場合は強いストレスや感情的刺激の強い出来事がきっかけで強く残り、ひとつの事をきっかけに思い出すとそれを止められなくなったり、必要以上に自分を責めるなどのパターンが出来てしまいます。
虐待などの心身的な苦痛の記憶から、対人への認知にズレが生じていたりするケースや、人の前で失敗した時に実際はそうではないのに【笑われたに違いない・嫌われたに違いない】などの、自己評価に関わる認知のズレでも起こり得ます。
その時に表に出る反応は大きく2つに分かれます。
実際の状況とは別に、感情的・衝動的にフラッシュバックしているその瞬間を表に出す(外向)
フラッシュバックしている瞬間の感情に心を支配され困惑し、フリーズ(思考停止)や語を失う(内向)
繰り返すたびに思い出す回路が強くなり、より鮮明になっていったり、思い起こされるきっかけが広がる傾向もあるようです。
よく大きな事故や災害の後のPTSD(心的外傷後ストレス障害)などでフラッシュバックが挙げられていますが、実際は実生活の対人関係の中など、ぱっと見のストレス規模の大きさに関わらず多少なり起きていてたりもします。
また、なんてことのない作業の間や、寝る前などに想い出が何度も何度も繰り返し襲ってくるなどがあり、記憶反響とも呼ばれていますが、これを繰り返し刺激が強く精査されていくことでフラッシュバック様な受け取り方になる場合もあるようです。
ちなみにアスペルガー症候群などの自閉症スペクトラム当事者であったり、傾向がある子供の場合に【タイムスリップ】といわれる現象が起こることがあります。フラッシュバックの様に過去を鮮明に思い出して、まるで今しがたやったかの様に出来事を話しを始めるなどがあります。
自己と現実の認識が浅く、【時間が連続している】という概念が薄いために起こっているとも言われています。フラッシュバックと分けずに使われることも多いのですが、こちらは状況の認識など対応が異なる場合があります。
フラッシュバックは脳の記憶処理の問題なので、処方などの薬物療法では対応できないことがあります。薬で記憶は消せませんので、薬物で出来る事は、そこに生まれる感情的な動きへの対処となるのが一般的ではないでしょうか。
また、【くよくよしやすい】などの人間性の問題ではなく、記憶の処理の問題と、認知の問題であるといった方が近いと思います。
時間のかかる対処になるのが一般的で、焦る必要はありませんが、直接的なアプローチの方法もあるのでご紹介します。無理のない範囲で目を通してみてください。
まず、何度も思い返してしまう記憶反響の対処ですが、応急処置的に行い、段々と薄くしていく方法があります。
こちらの記事で記憶反響の対処として有効なものが紹介されていました。
⇒嫌な記憶を消す方法、イヤな過去の思い出の消し方|セラピールーム・ソラ
まず、記憶に対し、その映像をセピア~モノクロに加工。そしてモザイク(ぼかし)を掛け最終的に見えなくしてしまうというものです。※消えていく理由や詳細はぜひとも紹介元のサイトを御覧ください。
この方法は記憶を消すのではなく、思い出しても問題がないように加工していく技法です。この方法では難しい場合は【受け入れる技法】が必要になります。
フラッシュバックの元になりやすい記憶や、後で嫌な気持ちになりやすいシチュエーションを思い出します。できれば最初は【あの時の失敗は恥ずかしかった】など、簡単に因果関係を思い起こせそうな問題から着手します。
①:それはなぜ恥ずかしい(嫌)だと思ったのか?
②:理想の結果はどういうものだったか?
③:それは誰に向けての行動だったのか?
④:その相手にどう思って(反応して)欲しかったのか?
⑤:その行動にあった貴方の本当の欲求はなんだったのか?
おそらく①の段階で止まっていたことに気がつくことが多いのではないでしょうか?
第4章でご案内したとおり、人は何かしらの理由があって行動・選択しています。対人関係で失敗することの多くが【こうすれば、相手はこう動くだろう】と相手をコントロールしようとすることにあります。
例えば相手に理不尽な事をされて強く残っている場合、悔しさや怒り、恐怖がそこに残っています。これを受け入れ相手や状況を赦すなどはまず難しい。それこそ人間性を変えなければ無理なのではないか……という非常にややこしい問題になります。
【受け入れる技法】とは相手や出来事を受け入れるのではなく、その時に感じたあなた自身の【憤り】を受け入れるための技法です。
憤りは自分の欲求が満たされなかった時に溜まっていきます。例えば相手に理不尽な事をされた時に、相手に対して感じる嫌な想いの根源は【相手にこうあってほしい・こう扱って欲しい】などが裏切られた事による憤りです。
この憤りはストレスやショックを受けているその時は自覚しづらく、憤りのみに意識が向かいがちになります。【あのとき、ああしてくれなかった・ああされた】などです。これを埋めることは出来ませんし、過去に立ち戻って相手に訂正してもらうことも出来ません。
相手の言動への怒りは許せなくても、どうしてそこに怒りを生み出したのかが分かれば、憤りの理由が分かれば、無限に湧き出す苦痛を低減・回避することにつながります。
不快感の原因や理由が不明であれば【不安】になりますが、その理由が分かれば取り扱いが可能な“過去の出来事”でしかなくなるのです。
大きなストレスであれ、理不尽さの大きさがどうであれ、認知して選択・行動しているのは自分ですし、そのメカニズムに変わりがありません。
受け入れる技法は、自身の真の欲求や行動・選択の理由を明確にするものです。
実は憤りや不安、恐怖の側面として、混乱の裏側にあるのは【分からないものへの不安】がカギを握っていることが多くあります。そして対人関係に起こる問題の多くは、分離不安が関わってきます。
人に認められたい(尊厳欲求)
安心したい(安全欲求)
思い通りにしたい(制御欲求)
などの欲求があり、さらにそれらの判断や権利を人に預けている場合に、強い分離不安になると言われています。
自分の欲求とそのために取った行動や、感じた物を理解することはこれらの欲求を他人から自分に戻し、その時の自分を受け入れることになります。
もし、理不尽がフラッシュバックを生むのなら、ほとんどの人が2~3歳時期までにそうなってしまうでしょう。そうでない人の方が多いということは、理不尽に対し、何らかの処理が完了していたと考えると見えやすくなります。
自分の欲求を理解することも納得のひとつです。相手(状況)ありきで起きていた現象であれば、これらに気がついていくことの方が近道になるのかもしれません。
次回はフラッシュバックの表面的な反応にも見られ、また、多くの場面で不安を強くしたり、現状や認知の自覚を阻む『フリーズ・パニック・癇癪』についてご案内します。
場合によっては実感や現実感を失い、日々の記憶が曖昧になる様な、希薄な感覚に支配されてしまうことも……。
─── ストレスが先か、離人感が先か。
相互的に引き起こし合いながら、長引く事で離人感が起こりやすくなる状況に、どんどん抵抗感を持つようになってしまう事があります。
今回は状況整理を鈍くしたり、認知を見失わせやすくする、離人感についてご案内します。
現実感がわきにくいなどの軽いものから、全てが他人事に思えたり、自分の体から離れてしまった様になってしまうなど広範囲に渡ります。
離人症性障害・解離性障害などに含まれる症状ですが、ここでは何らかの原因で対人関係や様々なストレスを引き起こしている場合の、心が剥離した様な状態になっていることを中心にしています。
例えばスケジュール管理を見失い、仕事にもパニックを起こし許容範囲を超えた時、現実感を失いそれ以上の情報が入ってこなくなる事があります。
単にパニックを起こして思考停止に陥っている時と違い、実感が剥離するため落ち着かせるための言葉すら響かず、また自己評価に直結しやすく極端な結末を無自覚で口にしたりなどがあります。
この間、実感が薄いため記憶に残りにくく、同じ過ちを繰り返し、さらにはまり込んで行く傾向があります。
無理に実感を持とうとしても、余計に余裕を失う事になりかねません。
ストレスや不安、パニック・フリーズから離人感が起きている場合は、実感を薄くさせたり、メモリを奪っている事への直接的な対処が必要になります。
『こうしたい』と思っていたのにならなかった
自分の立場ややるべき事を見失った
実行する項目が多く、ワーキングメモリの許容を超えた
『どう接すればいいのか分からない』という考えにとらわれている
など、解決すべき事以前の目的すら曖昧になっている部分が主な引き金になったりします。
場合によっては騒音や温度、肌に触れているものの感覚や体調の変化などに、上手く気づく事ができずメモリを失い続けていることもあるようです。
これらの原因に気がつくことがまず第一で、やるべき事や立場、目的意識を整理する必要があります。
その際、少しでもワーキングメモリを解放するために、今抱えている項目や問題を全て書き出し、頭の中だけで整理しないようにします。
1枚の紙やページに、ひと目で全てが把握できるように書き込むことをお勧めします(ページをまたぐとか、紙の裏面に続けるなどはしない)。
ここで何が問題か、自分で気がつきにくい時は1〜4章の技法を活用してみて下さい。
ストレス対応や、自己評価の低下から防御するために起きている場合は、こうして整理がつくだけでも緩和しやすくなるようです。
さらに出てきた目標や問題に対し、【全部解決する・全部終わらせる】などの大局で考えず、今できることをひとつひとつ書き出すくらいの、小さなスパンの目標の連続としてとらえると実感が取り戻しやすくなる傾向があります。
次回は過去の問題やトラウマを鮮明に思い出し、不安・恐怖・脅迫感を引き起こしてしまう『フラッシュバック』についてご案内します。
。
最悪の場合、相手と口論になっても、常に相手より上であろうとするために、論点をズラしてまで主導権を握ろうとする。
また、逆にぶつかろうとはせず、消極的な態度や何もできない風を装い、相手を動かす形で支配・コントロールする場合もあります。
─── やがて興奮が冷めた時の後悔、もしくはそれらの行動・選択を繰り返すことで、自ら居場所を失っていく。
今回は両極思考ともコントロールとも関係の深い、パワーゲーム思考についてご案内します。
相手とのコミュニケーションに、その人間関係よりも表面的な上下関係への意識が多くなります。目の前の出来事に白黒つけようとしたり、競争意識が強く、貸し借りにこだわったりします。
また、対等であることが不安定要素になる事があります。関係として上下どちらかに偏っている方が、その身の振り方が分かりやすく、それ以上の失敗が少なくなると考えやすくなります。
表面的な認識が強いということは、事実として勝っているかどうかより、対面的に勝負の事実を求める傾向が強くなります。
勝ち負け、関係の上下、会話での覇権など、表面化する場面は様々ですが、表面的であるが故に実力を偽ったり、極端な物言いに偏ったりもします。
“最後に文句を言った方が勝った気になる(自分の言葉で場を支配した気になりたい)”という様に、事実上の勝利よりも場面や自身の自己評価に関わる部分にこだわる特徴もあります。
その時は何のために上に立つのか、何のために相手をコントロールするのか、あまり自覚はしていないのではないでしょうか。
気が付くとパワーゲームを始めている。
そこにはいくつかの要因が考えられます。
様々な認知のズレから、自己評価が下がりやすくなっていて、自分の失敗・ミス・至らないことなどに対して敏感になっている場合があります
。
解らない事や、自信のない事の気配を感じると、感情的にそれらの事態を自分に向けないように論破しようとしたり、逆に自分を極端に卑下するような態度や、気配を消すことでスルーする様に働きかけます。
知っていることや、ややかじった程度の知識に対して、最初は共感を得ようと始めた会話なのに、そこで相手に負けそうになる可能性を感じると、自己評価を守るために是が非でも“会話”に勝とうとする傾向があります。
敏感になっている理由が自覚できていないと、急沸騰したり引っ込みがつかなくなる危険性があります。
【良い・悪い】【勝ち・負け】【全・無】というように、会話の中で現実の自分の立ち位置を見失い、両極端な思考で他人に評価されることを恐れると、負けることはそのまま自己評価の喪失につながるかのように錯覚します。
結局は上の【自己評価の防衛】と後の流れは同じですが、両極思考が進むと、相手に何かを教わるだけでも“自分はできていない=悪”など、より中間的な認知を見失ってしまいます。
意外とありがちなのは【~~の時は~~でなければならない】などの、自分のルールとズレたものを発見した時に、相手の立場や相手との距離感を一切抜きに攻撃してしまったり、必要以上に嫌悪感を抱いてしまう状態です。
瞬間的であったり、無意識に近い状態で反応した場合、パワーゲーム思考が強く出る傾向があります。
支配と被支配の関係で人間関係を捉えてしまっています。この理由としてもやはり自己評価の低下が大きく関わっています。
支配の側にある時は自分を大きく強く見せ、相手を思い通りにコントロールすることで自尊心や自己評価を保とうとします。被支配の側にある場合は衝突を避け、相手に気に入られることで自尊心や自己評価を保とうとしてしまいます。
防衛・両極思考・支配など様々な入り口はありますが、共通しているのは自己評価に関わる認知や、その行動・選択にあるようです。そして、ここに『認められたい』という承認欲求が絡んできているということです。
上に立つこと・下に従うことに、自分が何を求めているかを自覚する事が近道だと思われます。
まずは1~4章の様に、【自分はなんでそう思ったのか】を、しっかりと遡る必要があります。
【自分はなんでそう思ったのか】⇒【嫌だと思ったから】⇒【なぜ嫌だと思ったのか】⇒【負けるのは悔しい】⇒【なぜ悔しいのか】……
といったように、自分の認知が【自分がこうすれば、相手はこう動くだろう】などの、コントロールに陥っていないかを自覚する事が大切です。
その上で、コントロールすることがいかに【生きづらい・人間関係が窮屈】にさせているかを、自分の事として落とし込んで考えてみます。
第4章の『コントロールと劣化した想いを探る』にある、【受け流していく意識】の様に、自分の行動様式を正確に認識する様にすると、パワーゲーム思考にとらわれている自分の心がつかみやすくなります。
あなたと同じく、人はコントロールされることを嫌がります。また、【制御欲求】に流され、相手をコントロールすることで、自分の『認められたい』などの【承認欲求】を埋めようとすると、実際の欲求とズレるため、認知・行動・選択にズレを自ら作り出してしまいます。
※制御欲求=思い通りにコントロールしたい
※承認欲求=認められたい・受け入れられたい
このズレの中で『ああ、認められたかっただけだ……』と、思い返せるとこれらの欲求を抑えられることがあります。
自分の欲求が実際に起こしている行動や、本当に求めているものとズレている時、人は想像以上に困惑してしまうものです。その困惑が焦燥感を生み、さらに自分を見えにくくしてしまいます。
まずは思い出せる過去のやりとりや、自分の起こした行動・選択の中から、制御欲求と承認欲求が入っていなかったか、それらはどんな形で作用していたかを見つけられると安心出来るかもしれません。
その作用があなたに不安や焦燥感を生んでいて、それが分からなかったからこそ必死になっていたのです。一度正体が分かれば、次からはそこに気持ちを向けるだけで、肩の力が抜けるようになるかと思います。
次回は人間関係や社会において、ふと自分が【そこに居るようでそこに居ない】とか【現実感が浅く遠い】など、意識がそこに保ちづらくなり、自分のやることや周囲との会話が頭に残りにくくなってしまう【離人感】についてご案内します。